ジョルジュ・ネラン神父の非公式サイト

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ルオー

イエスという方は、その姿を描き出すのが大変難しい方です。イエスは人間であると同時に神の子であるからです。私がイエスのことを考えるというのは、決して神学の問題ではありません。むしろ、「神秘」(mystère)の問題として考えているのです。その「神秘」ごと、そのまま受け入れらなければならないのです。
一口に言って、私にとってのキリスト像は、画家ジョルジュ・ルオーのキリスト像そのものなのです。これは言葉では伝えにくいものです。まさに「神秘」そのものです。ルオーは、カトリック改宗後、キリスト像を多数描いており、ミゼレーレ(miserere)の絵を見ていると、本当に心が揺さぶられます。
奥村一郎が興味深いことを書き残しています。奥村はローマの人と神学の眺諭をしていました。奥村にとって、イエスは「神秘」であり、うまく言葉でそのローマの人に説明することができませんでした。しかし奥村はうまいことを言います。「その『神秘』があるからこそ、私はイエス・キリストを信ずる」と。この「神秘」というのは、科学的にも証明できないので、本当に説明が難しい問題です。私もまた、奥村と同じような心境にあると言えます。
このような根本的な問題は、言葉でうまく脱明できないし、そのようにうまく説明できないイエスのことを、教会が上から押し付けることはできない、ということは言うまでもありません。
エボペでも、クリスチャンのお客さんたちがキリスト教の話しをするというよりも、人と人との関係や身近な友情を通して、その彼方にあるイエスについて語っているという感じがします。

Gネラン(2010). 福音と世界・特集=私たちのイエスの読み方 6月号

ジョルジュ・ルオー
(正面向きの)キリスト

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