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巡礼の旅から(2)フジタ編と参考

見田 栄征

ランスのフジタ礼拝堂に、2017年2118年と二年続けて行った。
シャンパーニュ地方の中心ランスはパリ東駅から北東へ直通のTGVで約45分。
シャンパンと歴代の王たちが戴冠式を行った大聖堂の町。
何故続けて足を運ぶことになったのか?この訳は、単純。
2017年4月の下旬、出掛けたのだが、礼拝堂の公開期間が、5月1日から10月末までであった。
気が付いたのが、パリに渡ってランスに行く前日の電車の中。
取り敢えず、予約してあったランス駅前のホテルに宿泊して、歩いて探してみた。
地図を頼りに、歩き回ること三時間余り。
ようやく見つけたが、礼拝堂は、シャンパン工場の敷地の中だった。
せっかく来たのだから、柵を乗り越えて敷地に入り込むが、勿論、肝心な礼礼拝堂の中には入れない。
翌年の6月、再挑戦となった。

日本の美術評論家は晩年のフジタについて書かない。
多分、戦後フランスに渡り、カトリックの洗礼を受け、宗教画を描くようになったフジタを理解出来ないから、評価もできない。
日本の美術史には、西洋画の宗教画というジャンルがないのだ、と思う。
ネラン神父は、和辻哲郎の文章を引用して、作品に内在する「美」によって「神への道」が開け、「神を体感出来る」と説く。
確かに、文学では、カトリック作家として遠藤周作や小川国男はいる。
だが、ルオーのようにキリストを正面から描く画家は日本にはいない。
上野の国立美術館で部屋という部屋いっぱいに、フジタの戦争画を見た時に感じたあの異様さと、体の奥深くから湧き出る恐怖感。
あの絶望感の中で、フジタは何を思い、晩年の自分をどう立て直したのか。
そこに、カトリック受洗と、それに連なる宗教画の製作との関連は・・・・?

フジタは、文章は書かない。
戦争画制作時のわずかな時期を別にすれば。
正確に言えば、特に戦後パリに渡ってからの文章は公表されていない。
唯一、私たちがフジタの宗教画を理解しようとしたら、それは作品にしかないであろう。
ルオーの道化師やキリストには、一種の人間としての哀愁が浮かぶ。
深い、深い苦悩のうちに生きてきた人間の一瞬の表情が醸し出すもの、がある。
それに比して、フジタの絵は、マリアも幼いイエスも、今までフジタが数多く描いてきた、若い女性であり、子供達だ。
そこには、「現実」はなく、生が濾過され、昇華されている。
不思議な透明感さえ漂う。

フジタは、ルオーと違い「宣教するイエス」を描かない。
限りない人間の弱さと惨めさをイエスに重ねる遠藤。
救いの無い絶望の現実に、なぜか寄り添うように横を一緒に歩くイエスを語り続ける遠藤。
しかし、十字架に掛けられ死に行くイエス。
復活して神の右に座し、世界に両手を拡げ世界を包み込むキリスト。
こうした、礼拝堂いっぱいに拡がる壁画のすべては、「史的イエス」論争など知る由もないフジタにとっては、「受難物語」・「復活物語」という率直な「物語の世界の絵画」なのだ。
そこには、独自なイエス像もキリスト像もない。
フジタにとって、イエスはあくまでも個人の信仰の対象たるキリストであり、生きていく、そして死に行く、自分自身唯一の<希望>であったのだ。
それが、73歳で受洗したものの、誰にも悟られることのなかった『秘密』。

礼拝堂を包む静寂。
不思議な安らぎ。
もうここに、三時間以上いる。
ふと、ある思いが心をよぎる。
フジタのマリアは、弥勒菩薩なのではないか。
そこには、東洋的な「救い」の境地がある。
日本人にとって、「砂漠で生まれた唯一絶対の神認識」とはどういうものか?
ここでも、遠藤がその生涯を通じて苦悩した問いが、響く。

ネラン神父は叫ぶ。
「宣教として、『救い』を語るな。」
「新約聖書では、救いという言葉をイエス自身はつかっていない。」

【参考】フランスへの帰化
日本人であることをやめてしまった"日本人画家"

60代半ばに差しかかっていたパリの藤田は、静かに絵を描いて暮らした。画題は、子供が選ばれることが多くなった。傷ついた心が、自ずと無垢なものへと傾斜していったのだろうか。
藤田は相変わらず、やさしく義理堅かった。訪れる2番目の妻、フェルナンドや3番目の妻、ユキの愚痴や思い出話を聞きながら時に小遣いを用立てる。また、キキの埋葬にも立ち会った。過ぐる日、モデルとして女として数多の芸術家の愛を集めた彼女だが、最後の見送りをした古い友人は藤田くらいのものだったという。

アトリエに響く浪花節
1955年68歳で、藤田はフランスに帰化した。さらに4年後、仏北部の町ランスの大聖堂で洗礼を受けキリスト教徒となり、洗礼名「レオナール・フジタ」を名乗る。日本人画家・藤田嗣治の存在を、自ら封印したのだ。その一方では、日本から取り寄せた浪曲のレコードを愛聴し、塩辛や茶漬けを好んで食べていたという。
'68年1月29日、病没。享年81。美の神に魅入られ、激動の時代の中を翻弄されつつも駆け抜けたその魂は、いま、自身最後の仕事となった礼拝堂「シャぺル・フジタ」の中に静かに眠っている。

自らの最後の仕事となったシャぺル・フジタ
レオナール・フジタが、ランスに礼拝堂を建立すべく準備に取りかかったのは1965年、齢78の時だった。ランスはフジタが洗礼を受けた場所で、洗礼式でフジタの代父を務めたシャンパン会社社長ルネ・ラルーが、土地の提供を含め支援を申し出ていた。フジタの設計に基づき、礼拝堂の建物がほぼ出来上がったのが1966年6月。フジタはそれから3か月、老骨に鞭打って壁画制作に取り組む。石膏に絵の具を混ぜ、直に壁面に描き上げていくフレスコ画は、筆の速さと正確さを要求された。熟練の画家フジタの、腕と魂の最後の見せどころだった。
シャぺル完成後、フジタは体調を崩し、ほどなく天に召された。

『サライ』(2008.2.)3月号 , 30.

藤田嗣治
聖母子
1959年

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