ジョルジュ・ネラン神父の非公式サイト

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『老友』
(『カウンター越しの物語
-------エポペ・美しい冒険の15年』より)

遠藤 周作

フランシスコ・ザビエル神父が日本布教をこころざしたのはマラッカの町で三人の日本人に出会ったことから始まる。その一人が鹿児島県の出身の武士で薩摩の国で人を殺めたゆえにポルトガル船で逃亡してきたアンジローだった。
ザビエルはこれらアンジローたち三人の日本人から日本のイメージをおぼろげながら持つことができ、「黄金の国」での宣教を構想するに至った。
ネラン神父のほうは朝鮮で戦争がはじまった年の七月、マルセイユの港で迎えに行った数人の日本人青年と出会った。まだ神父になって間もない頃で、その数人の日本人のうち三人は神父の故郷であるリョンで勉強する筈になっていた。後に慶応の哲学科の教授と文学部長になった三雲夏生氏と筑波大学の理学部教授、三雲昴氏とそれに私がその三人である。
私は最近、必要あってザビエルの日本宣教時代のことを調べているが、時々、ザビエルとアンジローたち三人の日本人からネラン神父と我々三人の日本学生のことを重ねあわせたり連想してしまう。
我々がリョンに到着した時、フランス人たちはザビエル師ほどではないが日本についての智識も情報もほとんど持っていなかった。ネラン神父も同じようなものでリヨンに長く住んでいた滝沢敬一氏という日銀の元行員だった人(彼の「フランス通信」は戦争中の閉鎖された日本ではフランスの匂いを嗅ぐ非常に貴重な随筆だった)とそして我々三人から日本のイメ-ジを少しずつ持ったと思うが、日本布教の決心だけは前から抱いていたようだ。
神父が他の布教地------たとえばアフリカや印度などを選ばず日本を考えたか、実は私はまだ詳しくたずねていない。当初は中国のことも考えたことがあると洩らしていたのをうろ憶えに憶えているぐらいだ。
あの頃------つまり神父になったばかりの彼は実に体格のよい美男子で楓爽としていた.ロンドン大学で日本語を勉強したり、巴里の日本語学校で日本の智識を深め、リヨンの郊外、ローヌ河にそった「館」(シャトー)と周りの住民のよぶ大きな邸宅に時折、帰ってきた。
広大な部屋数の多いこの館には御母堂と叔父上、叔母上が住んでおられる邸のなかにはチャペルさえあった。バルザックなどの小説の舞台さえ連想するこの館に私も何度も泊まらせて頂いたが御母堂も叔母上たちも実に立派な、信仰の篤い婦人だった。
なぜ、そんな四十年も昔のことを書くかというと、私たちがあの「館」で昼食に招かれたり、少し酔っぱらって葡萄畑や丘のあるあまりに大きな庭をうろつきまわったりした頃の神父は実に若く、実に元気だったからだ。神父は神学校に入る前、軍人たちと志して士官学校に入学したそうだが、嫌になるほど丈夫な人なので病弱な私など庭を一緒に歩いていて息切れがすることもあったぐらいである。
その神父が日本に来て長い長い歳月がたった。時たま一緒に飲んだあと昔のように歩いていると、今度は向こうが息切れをしている。そして「年だなァ」と苦笑し、自嘲している。病弱だった私は今も病弱のまま何とか生き延びている感じだが、しかし立ちどまって苦笑しながら互いの顔を見あっているとあのリヨン以来の歳月やさまざまな思い出を共に、人生における「解合」がどんなに深いものだったかかんじるのだ。そういえば一緒に留学した三雲夏生はすでにこの世にいない。

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