ジョルジュ・ネラン神父の非公式サイト

メニュー

序章「ネラン神学の謎を追って」

EISEI

(一)
ネラン神父の著作を読んでみて、驚かされるのは、日本語の完璧さであろう。
本人が言うように、最後に日本語の専門家に手直しを受けているとしても。
しかもそれが神学の専門書だとしたら、見事としか言いようがない。
1970年代の中頃、ネラン神父は真生会館の理事長を辞任し、すべての役職から解放され、上野毛の修道会で暮らしていた。
そこでは日々、『キリスト論』を書いていた。
その後、新宿歌舞伎町で、宣教バーをやることになるのだが、これが、<神学者ネラン>の最後の姿だった。(と、私は思っている)
この時期、黙想会を通して、また時には個人として向かい合って、一時を過ごせたことに、神に感謝せざるを得ない。
その後、エポペ通信という短い文章と、「バー・エポペ」での思い出を綴ることはあっても、きちんとした神学書を書くことは、もう決してなかった。
唯一の例外を除いては・・・・

「新宿歌舞伎町での宣教」
…………人生の残りの三分の一をそこに注力したことに本人は満足している。(と、思いたい)
だが、
我々は、この時、最先端の聖書神学を駆使して、日本語で神学論を書<、フランス人の稀有な神学者を、永遠に失ったのだ。

(二)
1970年代に入つて、日本の聖書神学熱は一挙に冷める。
……~結局、「史的イエス」には辿り着けない。
ブルトマン学派の到達点が、日本学界にも浸透し始め、急速に、その熱は収まる。
田川健三が「原始キリスト教史の一断面」を出版し、遠藤周作が「イエスの生涯」「キリストの誕生」を書いた頃。
その一瞬、時が止まりかけた時、エレミアスの「イエスの宣教新約聖書神学I」が、再び「時」を動かす。
田川が言うように、実は、マルコ福音書はギリシャ語で書かれている。
勿論、ほかの福音書も、パウロの手紙ですら。
しかし、「史的イエス」は、実際はアラム語を話す。
翻訳されたギリシャ語で語る「史的イエス」とアラム語で語る「史的イエス」。
これは、時間の相違以上に、伝わるニュアンスの問題が、実に大きい。
それを、アラム語はじめとして、「史的イエス」当時のエルサレムを中心とした地域の様々な言語に精通し、自由に操る聖書学者が存在するとしたら・・・・・・。
それが、なにをかくそう、エレミアス教授であった。
この本の出版意義は大きい。
半世紀経った現在でも、色褪せることなく、またこれ以上の新約聖書神学書を私は知らない。
伝え聞く、言葉の断片でも、ギリシャ語の翻訳された言葉でなく、それが「史的イエス」が直接発した言葉であれば。
田川の労作「新約聖書」ですら、彼の「神学」で註を加え、出来るだけ分かり易くした画期的なものであったとしてもギリシャ語の原文を日本語に訳したものである。
しかし、その何十年も前に、「史的イエス」が語った言葉で書かれた神学書が存在したのだ。

(三)
ネラン神父が「バー・エポペ」を始めた頃の年齢に、私はイタリアンレストランを経営し、その後、二国ほどバーもやってみた。最後は一人で。
その時の経験からいえば、バーで働けば、忙しくて、本を読む時間は取れないし、物を書くことはもっと困難。
多分、ネラン神父といえども、教えるという点では、聖書を皆で読むぐらいが、せいぜいであったと思われる。
ブルトマンからボルンカム、そしてモルトマン。
1960年代の後半、当時としては最先端の聖書神学を、日本有数の若手神学者竹山昭神父から直接学ぶ機会を得ながら、その後、社会に出て仕事に忙殺され、研究者として「隠れ切支丹」になってしまった私には、
残念ながら、エレミアスを知る由もなかった。
晩年になって、時間ができ、田川の「新約聖書」に触れ、何十年ぶりかで、学生当時読んだ彼の著書を再読してみた。
そして、田川に導かれ『マルコ福音書』を徹底的に読み直してみる。
時を同じくして、真生会館の「遠藤周作の読書会」に友人と出席する。
今度は、徹底した聖書学の目から、遠藤を読んでみる。
すると、主宰している金承哲教授から、遠藤の小説の根拠とした聖書神学を教えてもらう。
再び、聖書神学を読む、意欲が沸く。
しかし、そこには、あの当時と同じ地点に立ち止まり、戸惑う私自身がいた。
やはり、「史的イエス」の問題は、越えられないのか。
ネラン神父のサイト作成の依頼を受けたが、依頼人の方々から何ら具体的な指示もなく、自分自身でも、何をしたらよいか、思い悩んでいた時。
「史的イエス」の問題にしても、限界を感じ始めていた時。
偶然にも、真生シリーズのエレミアス薯「新約聖書神学I」がオンデマンドで手に入ることを知る。
藁にも縫る思いとは、多分、こんなことをいうのであろうか。

(四)
一瞬にして、私は「半世紀の時空」を超える。
なぜあの時………ネラン神父が「キリスト論」を書いていた時、エレミアスに出会わなかったのか。
そうであったなら、「キリスト論」の意味がもっと鮮明に、そしてもっと正確に理解しえたであろうに。
生きていたネラン神父に、気の利いた質問の一つもできたであろうに。
「ロゴス」から「キリスト論」の時間的経緯の中で、ネラン神学は劇的に変化した。
一……これが、私の推論であり、最大の「謎」。
長年、私の心に刺さった棘。
それを解く唯一のカギが、このエレミアスの「新約聖書神学I」てある。
ということは、間違いない事実であろう。
翻訳し、出版したネラン神父は『キリスト論』を書くにあたって、勿論、原書で読んでいたであろう。
そして、この二つの著書の関連性を解明することこそが、ネラン神学を正確に理解することに繋がる、唯一の道であろう。
確かに、その後30年間、エポペ通信として、短い文章を残し、「宣教」の重要性を説く。
しかし、そこには既に、ネラン神学の発展はない。
還暦をすぎての『キリスト論』で完成されたであろうネラン神学を、本人の証言なしに、我々は解明していかなければならない。
と思われた時、また我々は、驚愕し、翻弄される。
死んだはずの<神学者ネラン>は、ものの見事に、復活する。
なんと、あの年齢で、あの環境の中で、最後の神学書を上梓するのである。
その奇跡とも言える書が、『キリストの復活』である。
平易で、優しさに満ちた文章に綴られた「復活論」。
時を経て、熟成された極上のイタリアワインのよう、まるで、モーツアルトの音楽を聞かされているような安らぎと安心感に包まれた時の流れが、そこにある。
我々に、「第一の謎」さえ解けぬのに、「第二の謎」が襲い掛かる。
だとして、「第二の謎」を解くカギはあるのか?
唯一我々に与えられた解決へのカギは、「新宿歌舞伎町での宣教」なのか?
しかし、
『おバカさん』を書いた遠藤は、最後の長編小説『永い河』で、再びガストンを登場させているにもかかわらず、歌舞伎町の宣教者としてのネラン神父は、決して書かない。
ますます、謎が謎を呼ぶ。
そして、この「三つの謎」を解くことが、以下の章を紹介し、解説していただく、理由でもある。
パイプを横に唖えたネラン神父が、ニヤリと笑う。
(2020年1月末雪の全くない新潟市内で)

今後、予定の内容

ネラン神学試論

序 章  『はじめに』
「ネラン神学の謎を追って」 EISEI
第一章 ネラン薯 『キリスト論』
「紹介と解説」
第二章 エレミアス薯 『新約聖書神学Ⅰ』
「紹介と解説」
第三章 ネラン薯 『キリストの復活』
「紹介と解説」
第四章 デュフール薯 『イエスの復活とその福音』
「紹介と解説」
第五章 遠藤周作薯 『イエスの生涯』・『キリストの誕生』
「遠藤文学にみる聖書神学について」  金 承哲
第六章 田川建三薯 『原始キリスト教史の一断面』
「ネラン神父の<予言>は実現したのか ?」 EISEI
最終章 『おわりに』
「『絶望の作家』遠藤と『希望の神学者』ネラン」 EISEI

PAGE TOP