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復活

キリストの時代
キリストの時代に、熱心なユダヤ人は人間が死んでから復活することを信じていた。新約聖書を読めば、それがわかる。ファリサイ派の人は復活を信じていたが、サドカイ派の人はそれを信じていなかった。パウロはその違いを利用したことがある。取り調べを受けたとき、彼は、「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられている」(使徒二三・六)とあえて言った。裁判官の中にはファリサイ派の人も、サドカイ派の人もいたので、さっそく互いに激しい論争が起こった。そうして、パウロ自身の取り調べは忘れ去られてしまった(使徒二三・八)。
また、ある日、復活を信じないサドカイ派の人はキリストに質問した。「一人の女性が次々に七人の夫に死なれて、次々に七人の男に嫁いだとする。復活の時、彼女はだれの妻になるのか」と。イエスは「復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」と答えた(マルコ一二・二〇−二五、マタイ二二・二五−三〇、ルカ二〇・二九−三四)。
他方、福音書に出てくるラザロの妹マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(ヨハネ一一・二四)とはっきり言う。このようにキリストの時代に復活は一般的に信じられていた。

由来
ところで、古い時代のユダヤ人は復活を信じていなかった。ところが、すぐれた人物は不滅であってほしいとの願望があった。そのため、ユダヤの物語の中には、非常に長く生きた偉人がよく出てくる。つまり偉人たちは何百年も生きる喜びを味わったわけである。たとえば、ぶどう酒を初めて造ったノアは九百五十歳で死んだそうだ。記録保持者はメトシュラである。九百六十九歳。
後に、ユダヤ人の心境の中に復活への希望が生まれた。その母体は神への信用である。人間を愛する神は、その人間を死から必ず救い出してくれる。その希望は詩編の中に表れている。
たとえば一〇三編「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい……主の慈しみは世々とこしえに」という賛美のことばの間に、「主は命を墓から贖い出してくださる」という希望のことばが出ている。
また詩編一六編で、「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません』……わたしは主をたたえます」という信仰宣言の後に、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」との信仰の告白が出てくる。
紀元前二世紀の半ば頃、殉教したある若者は息を引き取る間際に「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永速の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」と叫んだ(二マカバイ七・九)。

根拠
ユダヤ人は人間の復活を信じてきた。それを体得した人々は人間の復活という希望を抱いてきた。人生観のすばらしい誕生ではないか。
キリストの時代には、少数であっても、復活を信じないユダヤ人がいることはいた。彼らは神の愛を十分には受容していなかったからか。それとも、何かの証拠が必要だと思っていたからか。
キリストを信じる人は人間の復活をも信じている。その根拠はキリスト自身の復活である。キリストが復活したから、キリストに属する人も復活するのだ。キリストを信じるというのは、死を乗り越えた、また、われわれの死を乗り越えさせる神の子を全面的に信用することである。

Gネラン(1988). 季刊エポペ 12号

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