ジョルジュ・ネラン神父の非公式サイト

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わが友、ジョルジュ・ネラン
(1985年11月30日 エポペ通信2号から)

遠藤 周作

ネラン神父が新宿に飲屋を開きたいと言った時、三浦朱門と私とは猛然と反対した。その理由は彼の長年の学識をその仕事のために犠牲にするべきでないと思ったからである。彼はしかるべき大学や神学校でその知識を学生たちに伝えるのが仕事ではないかと考えたからてある。
しかし彼は強情な男だから三浦や私の意見を無視して新宿にエポペを作った。学者であるより市井の一神父であることを選んだのである。彼には日本人にキリストを伝えるためには学問を通してであろうが、スナックの親爺になろうが差別はなく、「より効力のある」ほうを選んだのだ。ネラン神父とはそのような男である。彼の人生の目的はただひとつ、キリストを日本人に伝えることである。私は彼のように信仰の強い人を、信仰そのもののために全てを棄てた男を他にあまり知らない。人はあまり知らないが、彼は多くの戦後の日本人学生を仏蘭西に留学させた。私もその一人だった。彼の助力がなければ、私は仏蘭西で基督教文学を学ぶこともできなかったであろう。そして小説家になる決心しなかったかもしれぬ。
私の『おバカさん』は彼をモデルにしたものだが、諸君もおわかりのようにネラン神父はおバカさんより力持ちであり、体格よろしく、顔もジョン・ウェイン的であって、外形にはいささかの差がある。しかし、おバカさんの持っていた信仰はネラン神父から拝借したものであり、おバカさんが日本にきてやった失敗の一部は実際にネラン神父が経験したことである。神父は私に「新宿のような場所でキリストを描け」と昔言ったことがある。そしてその新宿でキリストを伝えることを実践している彼の姿を見ると私はもう「それでいい」と思うが、しかし彼の著作「キリスト論」を再読する時、やはりその学識を無駄にすることが今でも惜しくてならない。くりかえすが、彼はキリストのために自分の学識や勉強を捧げたのである。「沈黙」という私の小説が上梓された時、ネラン神父と私とは喧嘩をした。何が彼の癪にさわったのかわからぬが「沈黙」のような小説を書くような男とはもう友人でありたくない口ぶりである。私も神父がこれほど私の文学をよむ男とは思わなかったし、自分のテーマを否定することは断じて肯えぬので当分、私も口をきかなかった。しかし我々の心の根にひそむ友情が消えるわけではないのでまた仲良くなったが、今でも私は自分の作品が彼を傷つけないかと心配になる時がある。3年かかって完成した今度の作品の主人公はあまりにイヤらしいので、もし彼が読んだなら、また怒りだすかもしれない。怒らないでくれよ。

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