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神の子の誕生の意義

歴史性
キリスト教の核心はキリスト自身である。それはキリストの存在が、超歴史的であることを前提とする。ところで、キリストは歴史上の人間でもある。日本の元号に相当する皇帝の統治期間で言えば、キリストはアウグストゥスの治世中に生まれ、ティベリウスの治世中に死んだ。西暦で言えばキリストは紀元前五年ごろに生まれ、紀元三〇年四月七日に死んだ。繰り返して言うが、キリストは教祖であるばかりでなく、キリスト教の基礎であり、キリスト教の中心である。信仰の対象はキリスト自身である。それはキリストが死を乗り越えて、今もなお生きているということを前提とする。それのみならず、超越的に存在するキリストは、同時に歴史上の人間でもある。
キリストの歴史性はキリスト教の特徴である。神のようなもの――超越的に生きる者――の存在は一般的に認められている。またその神々を崇めて礼拝するのもめずらしいことではない。一方キリスト教は、二千年前に生きていた人間が神の子であると信じることにその特性を示している。
「神の子」という聖書の表現を現代のことばに置き換えれば、キリストの「神性」ということになる。したがって、キリストには人性も神性もあるのである。

初期キリスト教時代の信仰告白
一一〇年ごろ、アンチオケの司教イグナチウスは『エフェソの教会への手紙』でこう書く。
「ここには一人の医者あるのみ、
肉にも、霊にも
生を受けたるものにも、受けざるものにも、
そは肉となりたる神、死より出でし真の生命
マリアより、また神より
さきに苦しみを受け、のちに苦しみを越えしもの
すなわちわが主イエス・キリスト」。
この文ではキリストの存在は明らかに二つの次元によって解明されている。一つの次元として肉、マリアよりの誕生、そして十字架の苦しみはキリストの人性を示し、他方の次元として霊、永遠の生命、死の超越はキリストの神性を示す。しかも、その信仰告白は新約聖書後のもっとも古い文献に出ているものであるが、現代人の信仰と完全に合致しているのである。
キリストを信じるのは、キリストに人性と神性とがあると認めることである。それを信じることは確かにむずかしい。しかし、仮にキリストに人性がなければ、キリストの言動はわれわれ人間の世界からかけ離れたものになり、結局、神話になってしまう。また、もしキリストに神性がなければ、そのキリストは偉大な人間とは認められるかもしれないが、全人類のリーダーにはなりえない。人性がなければ、キリストは非現実の天使になってしまい、神性がなければキリストは単なる偉人で終わるのである。

神学考察
事実、キリストには人性と神性とがある。そして人性を通して神性が現れる。言い換えれば、神がキリストにおいて自らを啓示する。だから人間はキリストを通して神の心を知ることができる。「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ一四・九)と、キリスト自身は言っている。
また、キリストによって、絶対性あるいは永遠性が歴史の中にとり入れられた。したがって、人間の歴史は単にぐるぐる回るものではなく、キリストによって意義を帯び、目的をもつことになる。そうして人間の行為は現身の世を乗り越え、絶対性にあずかることになる。キリストを通して、人間の共同体はその存在理由と、その目的を見出すことができる。
クリスマスはキリストの誕生であるが、同時に人間に生き甲斐を与える新世界の誕生でもある。

Gネラン(1987). 季刊エポぺ10号

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