キリストの復活 ― 史実と真実
復活の意味
イエスが十字架上で死んだのは疑いえない史実である。が、キリスト教はキリストの復活をも教えている。それはどういうことなのだろうか。
キリストの復活は、キリストが今も生きていること、そして、永遠に生きることを意味する。それは、一度死んだのちに、死ぬ前の状態に戻ったという意味ではない。キリストは現に生きている、目に見えない形で。復活したキリストの体は、あるにしても、時間と空間という次元には置かれていないし、いつかもう一度死ぬ体ではない(ローマ六・九)。
重点は、キリストが生きていることなのである。したがって、キリストの復活を信じることは、ある日、イエスが復活したという出来事を認めることであるよりも、キリストがほんとうに生きていると認めることである。そこで、史実と真実という区別を設け、キリストの復活は史実であるよりも真実であると言わなければならない。史実とは時間と空間という次元においてほんとうに起こった出来事であると定義しておこう。キリストの復活は、キリストが時間と空間から脱出したことを意味するので、史実と見なすことはむずかしい。また、史実は、目撃者によって裏づけられるが、キリストが復活したという出来事の目撃者はいない。この点からみても、史実とは言いがたい。
しかし、キリストが生きているのはほんとうである。真実である。科学的な意味での証拠がないにもかかわらず、それは真実である。そもそも証明できないから偽りだという考え方そのものが誤っているのである。何ごとも、本来、真か偽かである。偽なら証明できないのは当然であるが、真だからといって、証明できるとは限らない。「彼は信用すべき者だ」とか「彼女は私を愛している」とか言うときも、話し手はそれを真実として表現しようとするのであるが、そこには証拠があるわけではない(しるしはあるとしても)。あるいは、この仏像は美しい、としよう。その美しさを証明することはできないが、にもかかわらず、それはほんとうに美しい。要するに、真実は証拠によるわけではないのだ。
キリストが現に生きていることは真実であり、また、それがキリスト教の根本である。それを表現するには、イエスが確かに死んだので、そのイエスを復活したという形で述べるのが、ごく自然なやり方である。そして、キリストの復活、あるいは、キリストが復活した、という表現は、実際よく使われてきた。しかし、この言い方は、イエスが起き上がって墓から出て来たという歴史上の出来事を思わせる。前にも述べたように、復活は純粋な歴史上の出来事ではない。死から命への移行はあったが、それは時間という次元を離れることであった。復活の歴史性を表そうと思えば、超歴史的な出来事と言わなければならない。
ところで、キリストが生きていることを表現するには、「キリストが復活した」のほかにも言い方がある。それは、「キリストが父なる神の右に座す」または「神の右に上げられた」である。それは、すなわち、イエスが神の位に達した、あるいは、キリストが神の次元において生きている。あるいは、神の"神性″にあずかるという意味を表現しようとしたものである。
しかし、「上げられた」という聖書のことば(フィリピ二・九)を活かすためには、キリストの″高挙″(Exaltation)を使うほうが正しい。キリストの復活も、キリストの高挙も、ともに、キリストが生きていることを表す。
復活のしるし
キリストの復活を裏づける"しるし"は、まず、キリストの出現である。
一コリント一五・三−八で、パウロはキリストの復活を取り上げる。手紙は西暦五五年に書かれたが、パウロは四九年にコリントで教えたことをコリント人に思い起こさせる。しかも、それは、パウロ自身の教わったこと(三節)なので、この教えはキリスト教の当初からあったということがわかる。パウロは、キリストが死んだこと、葬られたこと、よみがえったことを、はっきり教えている。それから、キリストの出現の証人のリストを書く。このテキストは明晰である。
ただし、次の二点に注意しなければならない。まず、この証人は、キリストが復活したという出来事の証人ではなく、生きているキリストの出現の証人である。次に、この証人は教会の名のあるメンバーであって、信者である。
福音書も、キリストの出現をいくつか伝えている(マタイ二八章、ルカ二四章、ヨハネ二〇、二一章を参照)。マルコは、キリストの出現を伝えはしないが、キリストが復活したことは、はっきりと宜べる(一六・六)。ちなみに、マルコ一六・九以下は、もともとマルコ福音書の部分ではなかった、と学者はしている。
使徒言行録も(一・三)その出現にふれている。
出現はキリストが生きているしるしであるが、復活したキリストは目に見えないので、出現はむしろ例外で、信仰に導くしるしである(特にルカ二四・三〇を参照)。あえて言うなら、奇跡的な現象は、キリストが見えないことではなく、キリストが現れたことなのである。
なお、「空であった墓」というしるしもある。四つの福音書が、キリストの墓が空になったことを伝える。現代の学者は、その記述に疑問をさしはさむ理由はこれといってないとしている。つまり、キリストの墓が空になったことは史実と認められる。しかし、それはただちにキリストが復活したことの証明にはならない、必要な条件ではあるとしても。「空になった墓」から「復活」へは飛躍がある。そういった飛躍は、福音書にも、パウロにも、神学者にも見られない。
Gネラン. キリスト教通信講座Ⅳ