信仰は折伏ではない
宣教しようと思えば、相手が何を生き甲斐としているかを聞いてみることである。問うだけだ。もちろん答えが出れば、その答えを聞く。珠玉のように、その答えを受ける。生き甲斐について積極的に語ってくれる人は、尊敬しなければならない。そこであわててキリスト教を紹介することは避けるべきである。信仰は折伏ではない。相手が自分から自発的にキリスト教を求めてくるまで待たなければならない。
一方、信者の生き甲斐はキリストへの信仰から出てくる。人生観も日常の行動もその信仰を物語るはずだ。しかし、実際、多かれ少なかれ、口から出る信仰告白と日常の態度は不一致で、異なったメッセージとなっている。信者は聖人ではない。しかし、それは宣教を妨げない。信徒はあらゆる「機会」を利用して「キリストが生きているのは本当だ」と宜言できるのである。
Gネラン(2010). 福音宣教 10月号他