宣教として「救い」を語るな
次に大きな問題は、宣教活動で何をするかである。信者でない人と何を話し合ったらよいのだろうか。キリスト教は「救い」だという言い方をしないほうがよいと考える。私は信者の人に「あなたは救われましたか」とか「何の危機から救われたのですか」と聞いてみたい。キリスト教は救いをもたらすと言われてきた。しかし、少なくとも、ガンなどさまざまな病気からは救われない。また貧困からも救われない。これまでの教会が安易に使ってきた救いとはどういう意味なのか。よく考えると、結局、教会は罪そのものから救われると言いたいのだろう。ところが一般の人びとは認めないから、救いの話は説得力がない。
その時代によって人びとの関心、そして求めているものは違う。例えば、キリストが生まれたときの一世紀から二世紀にかけて、ローマ帝国で抑圧された人たちは救いを求めていたかもしれない。それに比べて現代の人びとは救いを求めていると私は思わない。
Gネラン(2010). 福音宣教 10月号他